多彩な手法を駆使するアーティスト、
神山隆二のルーツとアート観に迫る。

ART

シルクスクリーンやペンキ、スプレーなどを使い、自由な自己表現をする神山隆二さん。国内外で作品を展示する以外に、ブランドとコラボレーションしたりTシャツへ手刷りするイベントを開催したりと積極的な動きで脚光を浴びているシーンのキーマンと言える。また、スタイリストの石川顕さんとアーティストのジェリー鵜飼さんの3人で活動するアートユニットULTRA HEAVYの動向も見逃せない。そんな彼がこれまでに歩んできた道のりを振り返ってもらいつつ、ルーツや作品に対する考え方にフォーカスする。

10代で出会った
スケートボードが原点

小学生の頃からお兄さんの影響でインディーズのパンクロックを聴いていたという神山さん。中学生になった時期も聴き続けていたところ、スケートカルチャーと出会った。
「ずっと日本のインディーズバンドを聴いていて、イギリスとか海外のパンクに興味を持つようになりました。あるタイミングから鋲ジャンを着たモヒカンの人が、スケートボードを抱えてレコードジャケットに登場するようになって。大好きだったパンクに、得体の知れないスケートボードがプラスされたなら興味を持たない訳がないですよ」。

そこからスケートボードに熱中し、仲間たちと滑る日々。数々の思い出が鮮明に蘇ってくる。
「鵠沼海岸にあったPineapple Betty’s という伝説的なお店があって、地元の先輩がそこに通っていたから連れて行ってもらいました。いわゆるスケートボード第二次ブームの頃ですね。Pineapple Betty’s のボスである(大野)薫さんが日本にSuicidal Tendenciesの服を持ってきたりDOGTOWNのチームを連れてきたりで刺激的でした。それからは航空公園を中心に福生、鵠沼海岸の太陽の広場でスケートをする毎日。そこには大滝(ひろし)くんもスケシン(SKATETHING)ちゃんいました。今までレコードジャケットで見ていた光景が、人は違えど同じスタイルで目の前に広がっていたんです。地元の勉強できない連中が手にしたのがスケートボード。中学生の頃から部活も入っていない連中だけど、スケートボードだけは真剣にやっていましたね。擦り切れるほどビデオをみたし、レコードからテープに録音して大会の時にバックミュージックとして掛けてもらってすべてがいい思い出です」。

「いろんな場所で滑っているうちに、そのローカルの人たちとも出会いました。こいつらには負けないって気持ちが芽生えて、もっとカッコいい滑りをしてやるって対抗意識があったりして。僕らが好きだったDOGTOWNはテクニックではなく、滑りに対する強い気持ちを持っていて、それに魅了されていましたからね。その頃にスケートで出会った人たちは未だに会っていますよ。同じ街で毎日遊んでいた仲間が、今となってはそれぞれの分野で活躍しているからおもしろいと思います。その数年間は本当に濃い時間を過ごしました。これが僕の本当のルーツですね」。

裏原ブランドのひとつ
FAMOUZで人気を確立

そして19歳の頃にアパレルブランドFAMOUZを立ち上げた神山さん。その頃は裏原ブランドと呼ばれるドメスティックブランドが盛り上がりはじめていた。FAMOUZもご多分に漏れず、そのムーブメントの渦中にあったブランドのひとつだ。
「当時はスケートボードで遊んでいるのが日常だったし、毎晩クラブに行っていました。DJもしていたからクラブで手刷りのTシャツを販売していて、自分で作った服を持ち込めるお店があったから新しく刷ったらそこに持ち込んでいました。その時は、自分を表現する手段としてTシャツを刷っていましたが、次第にブランドになったんですよ。それがFAMOUZ。遊びが仕事になっていった感じです。洋服を作ろうという気持ちじゃなくて、単純に自分を表現する場所が洋服の上だった感覚です」。

海外で展示した経験が
作品に対する考えを変える

人気ブランドとして確立したFAMOUZだが、10年の節目で終止符を打つ。そこから神山さんはアーティストとして本格的に歩みはじめる。
「原宿に10年いて、いろんな経験をさせてもらいましたし、プラスになることばかりでした。でも、このまま続けていくと、自分の時間がなくなっていくという葛藤もあったんです。自分ひとりなら何とかなるけど、スタッフがいると考えることが多くて。だから散々悩んだ結果、解散しました。FAMOUZに区切りをつけた後は、まずは個展をやろうと思いまして。2003年にはじめて開催しました」。

「すると、アメリカやヨーロッパの展示にお誘いいただけるようになりました。海外では洋服を作っていたことよりも、純粋に絵を描いている人として見てもらえるようになって、やっぱり僕にはこれが合っているのかなって思ったんですよ。誰のためでもなく自分と向き合って描く、自分の世界。それが心地よかったんです」。

その海外での展示が作品に対する価値観を大きく変えたそう。
「日本での展示ではみんなが見にきてくれて、評価してくれたのは本当に嬉しかったです。でもそれは半分以上が友人や知人。自分のホームだからそれは当然ですけど、海外に行ったら知り合いなんている訳もなく、展示に来るのは知らない人ばかり。最初の展示はサンフランシスコで、小さな子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで来るギャラリーでした。在廊していると質問されるんですよ。『なぜこの絵はこう描いたの? なんでここはこうなの?』とか『あなたのこの作品はすごく気に入った。私の家のこういうところに飾りたいんだけど、どう思う?』って。アメリカは生活とアートが強く繋がっていて、日本にはない文化に衝撃を受けました。そんな質問をされると思っていなかったし、見る視点と評価の仕方が違うことに驚いたことをはっきりと覚えています。それと同時に、アートってもっと自由でいいんだなって思うようになりました。日本で描いていた頃は評価を求めちゃっていたんですよ。それも大事だけど、それ以上に自由であるべきだと思って。表現の仕方が変わったと思いますよ。その経験があるから、今も年に一度だけでも海外で展示をやっていきたいと思っています」。

お金以上の価値がある
ULTRA HEAVYの活動

そして、ULTRA HEAVYの活動にはこんな思いを寄せる。
「3人とも違う活動をしていて、日常でそれぞれ仕事に追われているけど、その中でULTRA HEAVYのためにデザインや企画をしています。でも、それはお金のためじゃない。息抜きができる場所だと思っています。あの2人にカッコ悪いものを作って見せられないという意識もあるんですよね。よく『ULTRA HEAVYって具体的に何ですか?』って聞かれることがあるけど、自分たちもよく分かっていなかったりしますからね(笑)。ただ3人が集まることで好きなものが生まれていく。絶妙な関係だと思います」。

期待値が高まっている
初参加のYES GOOD MARKET

今年のYES GOOD MARKETには、神山さんの作品の展示に加えて、ULTRRA HEAVYの出店もある。
「去年の5月、FREAK’S STOREの静岡店でライブペイントがあったんですよ。それが土曜のイベントで、翌日にYES GOOD MARKETがありました。FREAK’S STOREにSEE SEEの湯本さんが挨拶しに来てくれたので、次の日のYES GOOD MARKETに行きたかったんですが、朝一で東京に戻らないといけなくて……。だから、今年が初参加ですし、このイベント自体はじめて足を運びます。お世話になっているfridge setagayaで取り扱っているからSEE SEE自体は知っていましたよ。木を削り出してスケートボードとかをモチーフにしているがおもしろい。しかも、それが一輪挿しになっていてかわいいなと思っていました」。

「今年から会場が変わるみたいですが、ロケーションがいいですよね。自然の中でアートピースを展示できる環境なんて最高だと思います。最初、作品の展示でお願いされました。その後に鵜飼くんから『静岡でULTRA HEAVYが参加するイベントがあるけど、来れる?』って言われて。『それってYES GOOD MARKETのこと?』って聞いたら、そうでした(笑)。ULTRA HEAVYってそんな感じなんですよね(笑)。あと、参加するアーティストは知っている顔ぶればかり。それも楽しみですね。贅沢なメンバーが揃っていると思いますよ」。

PHOTO/DAIKI KATSUMATA TEXT/SHOGO KOMATSU